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評価運用

その人事制度、「作った瞬間」は完成でも、「給与に載せた瞬間」に失敗する

曽良 竜太 (コレドウ代表取締役)
その人事制度、「作った瞬間」は完成でも、「給与に載せた瞬間」に失敗する

この記事の要点

  • 複雑な人事制度が形骸化するのは、運用する人の怠慢ではなく、複雑さそのものが原因。覚えられず、意味も分からないものは、動かない
  • 制度は「作った瞬間」ではなく「給与に接続した瞬間」に不可逆になる。だから“載せる前”が、唯一の引き返しどころ
  • 良い制度は、分厚くない。試合中にルールブックを開かなくても動ける——覚えられて、文化になっているものだけが、運用に載る

分厚い人事制度の資料を見せてもらう機会が、たまにあります。よく練られているし、力も入っている。でも正直、最初に頭に浮かぶのはたいてい一言です。

「長い」。

人事制度は、作るときにどうしても“理想論”が詰め込まれます。あるべき評価とは、公平とは、成長とは——人事やコンサルが考え抜いた理想が、几帳面に条文化されていく。それ自体は悪いことじゃない。ただ、ひとつだけ見落とされがちなことがある。理想論をどれだけ精緻に書いても、それだけでは現場は動かない、ということです。今日は、その話をします。

なぜ、よくできた制度ほど、現場で動かないのか

結論から言うと、複雑さそのものが形骸化を生むからです。

分厚い制度が現場に降りてきたとき、いちばん割を食うのは、実は評価する側ではなく、評価される側——現場の一人ひとりです。項目が多すぎて、覚えられない。覚えられないから、自分の日々の仕事がその制度のどこにつながっているのかも分からない。「なんでこれをやるのか」「どうやって評価されるのか」「何のためなのか」——全部が、ぼんやりしている。

つまり、ストーリーがないんです。人は、意味の分からないルールでは動けません。動けないというより、動きようがない。

評価する側も同じです。たとえば、評価項目が20個もあったとします。分厚いルールをよくよく読み解くと、そのうちのいくつかは、どうやら最終的な処遇にはあまり影響しないらしい、と分かってくる。そうなると、その項目を一つひとつ真剣に見極める時間対効果は、もう合わない。だから、悪気なく、機械的に「まん中」を置く。これはサボりではなく、合理的な最適化です。複雑な制度は、評価する人にも、される人にも、「深く関わるだけ割に合わない」構造を配ってしまう。

そして皮肉なことに、多くの制度改定は「評価がまん中に偏る」のを直したくて始まります。なのに、直そうとして複雑にした結果、直したかったはずの“まん中への偏り”が、新しい制度によってもう一度つくり出される。動機が、そのまま再生産されてしまうんです。(評価制度を作り替えても回らない、この構造そのものはなぜ評価制度は「作っても回らない」のかにも書きました。)

結局、目的を見失っている

なぜ、こうなるのか。突き詰めると、幹を握らないまま、枝葉ばかりを作り込んでいるからだと思います。幹とは、会社の目的との整合性のこと。枝葉が悪いんじゃない。幹を握る前に枝葉の議論に入ってしまうのが、問題なんです。

顧問の志水静香さん(Funleash代表)が、いい喩えをしてくれたことがあります。「美味しいカレーを作る」が目的なのに、多くの現場は野菜の刻み方や洗い方ばかりを議論している、と。本当に大事なのは、「美味しいって、どういうこと? 辛いのか、甘いのか」を、みんなで先に握ることなのに——と。

誤解しないでほしいのは、刻み方や洗い方=枝葉が要らない、という話ではないということです。枝葉も、ちゃんと要る。評価項目の設計も、等級の刻みも、必要なものは必要です。問題は順番と比重で、いちばん大事なのは幹の話——「この制度で、うちはどんな会社になりたいのか」という、会社の目的との整合性のほう。なのに、多くの現場はその幹を握らないまま、枝葉の話ばかりを延々と議論している。

人事制度も、まったく同じです。幹(どんな組織にしたいか=思想)が握れていないまま、枝葉(評価項目の精緻化)だけを突き詰めるから、条文はどんどん増え、資料は分厚くなり、そして誰にも覚えられないものが出来上がる。(評価も目標も“目的”に接続してはじめて動く、という全体像はパフォーマンスマネジメントとはに書きました。)

志水さんは、自分が制度を設計するときは、長くても10枚くらいに収める、と言っていました。短いのは、枝葉を捨てているからじゃない。幹がはっきり握れていると、枝葉が幹から素直に伸びる——だから暴走せず、短く収まるからです。

制度は「作った瞬間」ではなく「給与に載せた瞬間」に固まる

ここで、いちばん大事な話をします。

紙の上の制度は、いくらでも直せます。表現を変えても、項目を足しても引いても、コストはほとんどかからない。ところが、その制度を給与に接続した瞬間、性質が変わります。一度でも処遇に紐づくと、それを直すことは「不利益変更」の議論になる。労働組合との交渉が要る。社員一人ひとりへの説明責任が発生する。人事システムの改修も走る。

つまり、制度が不可逆になるのは、書いた瞬間ではなく、給与に載せた瞬間なんです。コンクリートは、設計図を描いたときには固まらない。流し込んだ瞬間に固まる。だから、「載せる前」だけが、唯一の引き返しどころになります。

にもかかわらず、多くの会社は、いちばん引き返せる“載せる前”のフェーズを、いちばん軽く扱ってしまう。合意さえ取れれば、あとは流し込むだけ、と。逆なんです。

だから、制度は「プロダクトのように」作る

僕はもともと、事業開発でプロダクトを作ってきた人間なので、どうしてもその作法で考えてしまいます。そして、その作法こそ、制度設計にいちばん足りていないものだと思っています。

プロダクトを立ち上げるとき、いきなり作り込むことはしません。最初に作るのは「ペーパーモック」——要は、開発しない紙芝居です。紙と言葉だけで説明して、これがどれくらいの感動を生むかをテストする。手応えがあってから、ようやく少しだけ作る。しかも、作りながら現場に聞いて、方向転換しながら進める。世に出すのは、いちばん最後です。

大事なのは、最初から「引き返すこと」を前提に、作り方そのものを設計しているという点です。

人事制度も、これでいい。いや、これでなきゃいけない。いきなり分厚い“完成品”を作って合意を取りにいくのではなく、まず一枚の紙芝居で「この評価で、うちはどんな会社になるのか」を現場にぶつけてみる。反応を見て、直す。給与に載せる=ローンチは、いちばん最後。引き返せる作り方で設計されていない制度は、載せた瞬間に、引き返せなくなる。(AIで“作る”ものが増えたいまこそ、この「作るより運用」の落とし穴は制度以外にも広がっています。その話はAIで“作る”のは簡単になった。それでも破綻するのは、いつも運用だに書きました。)

良い制度とは、覚えられる制度である

では、運用に載る制度とは、どういうものか。

サッカーの試合中に、選手がいちいちルールブックを開いて「オフサイドって、どういうルールだっけ?」と確認するでしょうか。しません。というより、そんなことをしないと成立しないスポーツは、スポーツとして破綻しています。ルールは、覚えているから、体に入っているから、プレーが成り立つ。

制度も、同じです。評価者が分厚いマニュアルを読み込まないと使えない制度は、その時点で運用に載っていない。覚えられて、文化として浸透していて、なぜそうするのかというストーリーに一貫性がある——それが、運用に載る制度の最低条件だと思います。思想が一本通っているから、覚えられる。覚えられるから、現場で動く。

分厚さは、丁寧さの証ではありません。むしろ、目的が定まっていないことの証明です。良い制度は、分厚くない。

おわりに

長くて、複雑で、運用が考えられていない制度は、作らないほうがいい。もし作ってしまっても、給与に載せる前に、必ず立ち止まったほうがいい。運用されない制度は、無いよりも悪いからです。社員に「変わるかもしれない」と期待させた分だけ、動かなかったときの失望は大きい。

制度そのものを、いくら精緻に磨いても、現場は動きません。動くのは、目的が握られていて、覚えられて、日々の中で回っていく——そういう“載る”状態になっているときだけです。作り込むべきは、条文の緻密さではなく、その状態のほうだと思います。

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